歩み(過去の日記1 2017〜18年)




 こういう風に思考を使わされて、不安や嫉妬の感情が出てきて、動きを止められてしまう、というパターンがよく見えてきます。ある事や人が頭から離れなくなる時は、そう仕向けて思考を忙しく感情を煽ろうとする、その奥に別の意思があることを、ふと感じられ、それに気が付くと、何かが強くいられて、それまでの思考が消えます。朝起きて、真っ青な空にピカピカの太陽を浴びながら洗濯物を干して、部屋の掃除をしながらそれを感じて、元気になって、家を出た。(11月15日)




 先月、たしかこんにゃくを意識して食べ始めた頃、今まで遠い遠いと思ってどうしても行く気になれなかった魚屋さんに、ふと足が向いて、それも何でもなくあっという間に到着して、それ以来普通に通っています。なぜ、遠いと感じて、行くのが億劫だったのか不思議なくらい。そんな、本当は普通にできるはずのことが、今までいろいろとても難しくて、でも気が付けば、小さなことだけど一つ一つ、何か開放されて自然に気楽にできることが増えてきているようです。(2018年11月13日)




 目の前の現実を、善し悪しとか正解不正解と判断しているのは、全部思考で、そこに一緒に否定感情がくっついてくる。自分の本当の意思は、それがただ必要性としてのものであることを知っているのに、思考がそれをジャマしていただけ。でも、きっとそれすらも、必要性の中のこと。全てを浄化するために、かけがえのない一つ一つのポジションと役割。ずっとそこにいて、それを生きてきて、今もそこにいる。なんだか、普通に、そう感じられる。(11月3日)




 ここ連日の天気と同じように、気持ちも晴れやかで、10月の終わりなのに歩いていても家で座っていても、体の中から発電されているみたいに汗ばんできて、こんな10月は初めて。なんだかただ、そうだったのかと、何かがホッとして、安心して、元気になっている。(10月31日)




 よく行くお店に入ったら、4人いたスタッフ全員に無視されて(狭い店内で、他にお客さんもいないのに、みな視線を逸らしてニコリともしてくれない、、、)、何も聞けず買えずにお店を出て、こんなこと初めてだなあと思ったけれど、買いたいものがあったので翌日懲りずにまた行ったら、同じ人が2人いてその一人に声をかけた瞬間に身体の一部がふっと痛みだし、それからいつの間にか強烈な自己否定が出てくる。それは、しばらく続いたその感情が消える直前に気がついたことだけれど、今まで、こんな風にして気づけずにあちこちでスイッチが入っては訳も分からず落ちて、、、を繰り返してきたのだなと思う。その自己否定の様子が、今回は自分でもあまりに呆れるほど強烈で分かりやすかった。嫌われる、ということは、それがとても分かりやすくなって、落ちる経験をしなくてもよくなっていくということなのかな。(10月20日)




 公園の木が大変なことになっていた、と聞いて、以前写真を撮った井の頭公園へ久しぶりに行ってみると、自転車用のスロープを下った正面にある広場の大木とその横の大木が、根元から折れたり根こそぎ倒れているのが目に入ってきた。折れた幹は、中が空洞になっていて、根こそぎ倒れた木の方の根はすごく短くて、ほとんど地面に根を張れていなかったことがわかる。そのそばの、最近伐採されたと思われる大木の切り株も、両方とも中が空洞になっている。どの木々も、自転車のLEDライトで弱っている姿を去年写真に撮っていたけれど、公園のあちこちでたくさんの大木が同じように倒れていた。これからも、台風で少し強い風が吹けば、またたくさんの木々が倒れてしまうだろう。そういえば、池の周りの斜面の土が崩れやすくなっていて、土が池に流れ込んでしまうのを防ぐために土止めをしています、という張り紙を半年ほど前に目にしたけれど、それも全国各地で起きている災害の状況と同じ。公園だけでなく、JRや私鉄の線路脇でも塀が倒れたり、木が倒れたりしてあちこちで電車が止まっていたと知り、みんながLEDの本当の姿に気がつくまで、そしてLEDを外すまで、これから自然界はどこまでも行くんだな、一緒に行くんだな、と感じる。(2018年10月4日)




 何か動きやすくなって、どうしてもやる気が起きなかったことが普通にサクサクできて、今まで動きにくかったことがわかった。何も考えなければ、何もない。目の前にある現実と、なんとなく思考とは別のところで動き出す何か。そこにいられる時もあるし、いられない時もあるけど、それもどうしてか?わからないし、これからもそのままでいる。(10月4日)




 ふと何げにある場所やある事が目に入ってきたり気になって意識を向けて、それでそのことを忘れていると、それと関わるような事が起きて、それを思い出して、行くべき場所や選択するべきことがわかり、スムーズに事が流れる経験をすることがある。ふと、それってまるで前から起きることが決まっていて、必要な経験をしているだけなのだなと感じる。
 今までを振り返ってみれば、全てが病みの中で操られた経験ばかりで、それは自分が弱いがゆえのものだと思っていたけれど、それをもっともっと大きな大きな意思から見てみると、それも私個人ではなくみんなの中の一人としての、全て必要な経験で、操られた中での経験なのだけどそれを更に大きく包み込んでいる世界から見れば、必要とすべく経験をする為に、必要な選択をし続けていただけに過ぎないのかもしれないと、今は感じられるようになってきた。
 これから何が起きるか、何を経験すべきかを自分の芯のところでは分かっていて、それを今までのように不安発の思考でじゃましなければ、その必要性もどんどん変わっていって、一見問題事のような事も必要な経験でしかなく、そして何事もなかったかのように流れていくだけで、これからもきっとそれが大小様々に続いていくのかなと感じる。いつの間にか、安心の中で、そう思えるようになっている。(9月22日)




 特に意識することはなかったけれど、体にはたくさんの常在菌がいて、それぞれがその場その場でバランスを取りながら、健康的な状態を維持してくれていることを、改めて認識する機会があった。それが何かのきっかけで崩れてしまうと、抵抗力や自浄力が弱くなって、あちこちに異常が現れてくる。人間の身体も、地球と同じ微生物によって支えられているのだなあ、と感じる。
 清潔に、と過度に洗い過ぎるとかえって皮膚の抵抗力を弱めてしまうことは知られていることだけど、トイレのウォシュレットは、その大事な常在菌を体の中まで入って洗ってしまうため、日常的に使用し続けていると微生物のバランスが崩れて、害を及ぼす菌が優勢になってしまう原因になりやすいことを知った。
 今では、当たり前のように普及している機能だけど、それが体の本来の自浄力を知らずうちに弱めてしまうとしたら、表面的な便利さとは裏腹に、なくてもよかった病気が新たに増えていく原因になっている可能性があると思う。そういうところからも、そこに隠された意図を感じる。(9月18日)




 先日の北海道の大きな地震の時、その事実を知らなかったにも関わらず、その日未明から夕方にかけて、しばらくなかった強烈なダルさや泣きたいような感情がたくさん浮き上がってきた。夕方、その地震のことを知ってから、何故かわからないけれど、気が付けばそれらが消えて、何もない感覚に戻っている経験をした。なんとなく、みんな今この地球の自浄作用と連動していることを感じた。(9月8日)




 先日、電車に乗っていて、ふと周りを見渡した時、色がない!?ことに気がついた。通勤時間帯でたくさんいた人たちは、シーンとしていて、無機的なモノクロの別世界にいるみたいで、その風景を感じた時に、ずっとその中で染まっていた自分を把握できたように思えて、それ以来気が付くと、毎日地味な色の服を選ぶ気がしなくなっている。気持ちが後ろ向きで元気がない時、どうしても目立たないように地味な色の服を選択してしまうのは、そういう日本人独特の(右へ倣え的な)重たい感情で変化を止める意図に覆われてしまっているからなのだな、と今は感じられる。
 他を意識した、優越心や差別心のような隔たりからは遠いところで、太陽の元気に連動して、ごく自然な感覚で色を楽しむ人が増えていくといいなと思う。(9月3日)




 LEDの影響の写真を撮って、その時の感覚のまま何も考えず、そのままページを作っている時、自然界に調整されているのであろう身体的な反応はたくさんあったけれど、頭(気持ち)はとても楽だった。思考を使わなくていられたから。けれど、写真によっては、確認のために(何も知らないので)調べる必要が出てくる場合もあって、その情報に触れているうちに、撮った時の感覚を見失ってしまい、不安になって、気が付くと思考で説明しようとしている自分を自覚することがよくあった。(たいてい、後にならないと気が付けなかった)
 だんだんと、目に見えない人や物事のその手前の原因に反応するようになってきて、そこに書かれている内容や今までの経験とか一切関係なく、一瞬で感じてしまう感覚がわかってくると、今度は、その時はよくわからなくていつの間にか落ち込んだり不安になっている感覚とかも体験的に把握できるようになってきた。
 ある情報や文章に触れて、なんだか不安になる自分が見えてくると、自分の感性を守るために、それと距離を置くことも感覚的にできるようになる。そこにいれば、その不安に覆われて感情的になってしまっている人がいても、ぶつかることも引っ張られることもなく、そうなってしまっている原因が見えるところにいられる。今までのプロセスは、全部生かしていくことができる。(8月24日)




 以前、家族でハワイに行った時に感じた、空気も人もオープンで気楽で陽気な、なんともいえない楽な感覚を、時々思い出します。みんな、Tシャツに短パン。砂浜では、シワシワのおばあさんが、きれいな色のビキニを着て泳いでいる。だれも何も気にしていない。そんな中にいると、こだわりがあっという間にどこかに行ってしまって、気持ちが解放され自由になれました。細かいことなんてどうでもよくなるのです。(カウアイ島で、「ハワイにはヘビがいないから、こうして野生のニワトリがたくさんいる」と聞き、今はとても納得できる)
 帰国して空港で、肩にのしかかってくるような重たい空気を経験したとき、その軽さがあっという間に覆われていく感覚があった時、洋服一つとっても、細かいディティールにこだわる日本人の(自分の中に染み込んでいる)価値観に強烈に違和感を感じられて、それが差別心なのだと感じました。そのこだわりは、なんというかハッピー感がなくて重たくて暗い感じ。その価値観の中にいると、表面的な細かなところに気を遣わされて、本来の素朴な感覚を見失わされてしまう。「こだわり」を美徳として捉える日本の風潮は、差別心を強めてその大事な素朴な感覚を、押さえ込み見えなくさせる意図があるように感じます。日本が、ハワイのような空気感に包まれる時が、いつかくるのかな。(8月20日)




 とても単純なことなのだけど、自分も(みんなに繋がっていくことが)出来ると思える時、それだけでとても楽でうれしい気持ちが広がっていく。それが本来だと、その感覚が教えてくれている。ただ単純に、子供のように、自分の出来ることに喜びを感じられていれば、自分が出来ないことができる人に対して、素朴にすごいなあ〜と感じることも、やっぱりなんだか嬉しくて喜びしかなくなる。お互いがただ嬉しくて、それが普通の感覚だと思う。
 「太陽の音楽」に触れ続けていると、それとは相反する否定的な感情がこれでもか、、、というほど出てくるのは、小さい頃から母に、繰り返し人と比較され嫉妬心を煽るようにして否定され続けていたことが、自分の想像以上に深くに染み込んでいたことが大きい、と感じる。今までの人生で、何度も同じように繰り返されてきたことなのかもしれない。常に不安の中にいることで、それが増幅していくのだと思う。
 嫉妬心も差別心も優越心も、本来人間が持っていられないもの。それが自分の中から姿を消した時に、自分はなくなっていくのかな。その自分を想像すると、すごく楽だなあ。(2018年8月3日)




 「太陽の音楽(5)」の6章に触れて、身近な人が「うたい」を習い始めてから、毎日のように聞こえてくる 音楽(はやし)とそのお経のような「うた」と、時折ドンと足を踏み鳴らす音に、動きを止められてしまうようなただ怖い感覚があり、その度に、それを聞かなくてもいいようにCDの音量を上げていたことを思い出す。その世界に集まる人たちの見栄や体裁はすごくて、伝わってくるものはなにもかもが優越心と差別心ばかりで、重たいもの。私の、この時の様々な反応から、その世界の染み込みがかなりのものであることも、なんとなくわかる。なにげに、「うたい」を辞書で調べたら、「謡」という字だと知り、なるほどだから歌謡曲なのだな、と。音楽の全てが、その古典芸能の音楽の世界と繋がっていることを、自分の心身のこの今の強い反応も教えてくれる。(2018年7月14日)




 暗闇の中で目を光らせて、じっとこちらを見ているヘビが襲ってくる寸前の、その怖さとしかいいようのない感覚を、身近な人とのやり取りの中で、2度ほどはっきりと感じたことがある。結婚して、妊娠したことを報告した時と、叔父が亡くなる少し前に、その人に黙ってお見舞いに行ってそれを報告した時。突然、夜中にその事を思い出して、その意味はわからなくても、そういう感覚一つ一つにこれまでがあり、その感覚がこれから今までを溶かしていくのかな、と感じた。
 縁ある人とのやり取りで、見えない隔たりを感じたり、胸にキツさを感じるようなものだったのが、次にやり取りする時には、スーっと流れたり、全くキツさを感じなくなっている経験をする。自分と一緒に変化してくれているのなら、いいなと思う。(2018年7月9日)




 自分が一番じゃないと気がすまない、という感情が、自分の中にある。常にその感情が、思考が、自分を支配しようとしている。これは、どう考えても普通ではない、ありえない不自然な感情だ。どこからこれが来て、どこから入り込んでくるのだろう。あの人にもこの人にも見えるものと、全く同じものだ。。。と感じていたら、背中の中心が突然痛み出し、塊のようなものが意思表示し始めた。ここにあったのだ、と把握する。手放していく。(2018年6月30日)




 自分が、思考を忙しくさせていることさえ自覚できない程、その中にいて、今、この時、それを外側から眺めることができ始め、そのベースに塊になって、びくともしなかった、不安、怖れ、嫉妬、優越、の感情が、はっきりと見えてくる。常に、その感情をベースに価値判断をし、思考を働かせていたこと。特に、嫉妬心と優越心は、自分が一番あることを認めたくない、苦しい感情。だからこそ、今まで、人のその感情に敏感に反応して、苦しくなっていたもの。それがあるから、そこを常に刺激され、その世界を支えてしまっていたこれまで。どうすることもできなかったそれらの感情が、「太陽の音楽」で、隠れていることもできなくなって、どんどん浮き上がって、砕かれていく。(2018年6月4日)




 書いていることや言っていること、やっていることは至極まっとうで正しくて、それがすごく力があると、いつの間にか引っ張られて、それができない自信がない自分が、当たり前になっていた。この頃、世の中のそれらの思考発の表現に触れる度に、これに(こういうエネルギーに)影響を受けて、抑え込まれていたんだな、、、と感じられる。それは、それらに触れた時の自分の身体の反応や気持ちの動き(不安になるetc.)が分かるようになってきたから。伝わってくるものに反応すれば、知らずうちに引っ張られることもなくなって、自信があるもないも関係ないところで、感じたままを表現できるようになるのかなと思う。(2018年5月20日)




 たぶん小さい頃から、なんとなく大事にしていた感覚があって、大人になってからも、「こんな感じ、あんな感じ、、、」でみんなが通じ合えればいいのに、、、と、いつも思っていた。学校でも、会社でも、‘プレゼンテーション‘というのがすごく苦手で、言葉で理路整然と説明することが難しくて苦しかった。だから、無有日記に出会った時、そのなんとなく感じていたことがほんとに大切なことだったとわかって、すごくうれしかった。
 けれど、その大切にしていた感覚は、その時にはもうボロボロで、力はなくて、表現すれば、出てくるものはただただそれまでに溜め込んだ重たいものばかりだった。感じたこと、思ったこと、あったこと、、、ちゃんと分かりやすく言葉にしようとして、何を書いても全部ウソになってしまう気がして、心のままに表現する、ということが全然わからないと思っていた。
 今、子供のように無邪気な、なんだか優しい想いがフツフツと湧き上がってくる。みんなで遊んで、ケラケラ笑って、穏やかで優しくて喜びに溢れた風景。何があっても、誰に何を言われようと、ずっとずっと確かにあると感じていた、遥か昔のその感覚。やっぱりそうだった。それが元気に意思表示し始めている。(2018年5月16日)




 仏陀や道元だった存在が、この時代にいて、その真実を今知ることで、自分の中でこれほどの動きが生じるのか、と感じる日々が続く。自分の次元を知り、何一つ生命本来を生きることができなかった今までを受け止めることはとても厳しく、でも、それができた存在が、今、ここに共にいてくれるからこそ、その厳しさを自覚し感じることができるのだと思う。そして、厳しいと感じれば感じるほど、無有日記の進行と共に、浮き上がってくる要らないものは大きくなり、より切なさや悲しみ、ゾワゾワとした落ち着かない気持ちの悪い感覚や不安が、交互に出てきては消えていく。その合間に、ふと訪れる感覚は、遠い昔に当たり前にあった、優しさに溢れた風景の中のみんなと繋がるような、安心そのものの暖かな気持ち。それがあることがわかっているから、また歩いて行ける。(2017年11月14日)



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