歩み(過去の日記4 2019年4月~6月)



6月28日
 IHや電子レンジや非生命食と、自ら病気の原因を作っておきながら、事あるごとに周りを巻き込み気を使わせて、人の時間を奪うことを喜びとするような人。身近にもいるそういう人に、何となくですが、(これはもしかして、自家中毒のような反応なのではないのだろうか?)と思う出来事がありました。動けなくなって、問題ごとに巻き込む、という意図があるのかもしれないけれど、何も心配できなくて、普通に何となく足首を握って、素数を想って、気が付けば何事もなかったように通り過ぎていきます。
 全然平気。そんな気持ちが、力強くなってきているのかな。




6月26日
 人から見下されているように感じるとき、自らの中に同じ性質を観る。人の失敗や、なかなか変化できない様子にどこかで安心する気持ちと同質の、冷たい性質。スッと出てきて、スッと消える。
 思考は、他者の苦しみや問題事を喜び(安心)とする存在に支配されていて、自分の発想、考えだと勘違いした中で操られているように思う。だから、何か(人・物事)に触れる手前に思考(思い込み)が働けば、感じることもそのまま真ではないと感じる。思考に無自覚のままそう感じさせて、人と人がいがみ合い、不安や問題事に繋がっていく材料になる。
 何にも捉われないで、ふと想うこと、感じるままでいられることが、本当の自由なのかな。そこに、隔たりと繋がる性質のものは、一切存在できない。




6月24日
 GAPの子供服売り場のTシャツを見ていたら、「お子さんのサイズありますか?」と店員さんに声を掛けられて、その後、ベビー服売り場でクジラ柄のロンパースを見ていたら「大きな子と小さな子、お子さん二人いらっしゃるんですね。今、とてもお買い得になっていますよ。」と言われて。。。後で想い出して、(いや~あり得ない~)とプッと噴き出してしまいました。でも、TシャツにGパンで、年を取るのが楽しくなるな。




6月24日
 一切の不安・心配から自由でいることの力を想う。みんなで力をつけてきた今まで。




6月22日
 太陽の光と仲良しな元気な色を、自然体で好きに楽める自由。気持ちが、見えない抑圧から解放されて想い出すこと。素朴な人たちの元気な自由な感覚が、解放されていく。




6月19日
 出来ること、出来ないことを強く意識させて、隔たりの材料にする非生命世界。普通にできることを出来なくさせて、普通に出来ないことを無理やり力づくで形にする。順位をつけて、調和ある関係性を破壊し、安心を感じることで成り立つ価値観。勉強も、スポーツも、政治も経済も宗教も、社会はみなそういう価値観で成り立っているように感じられる。否定感情を力に、支配を形にする人たちにとって都合のよいもの。
 未来地球の安心を想うとき、出来ることは人それぞれだと思うけれど、出来ることしかできないのもみな同じ。それが本来で、バランスがとれた調和の世界。出来ることは、想いが自然に案内してくれること。出来ること、出来ないことを意識する必要もない、安心と喜びの中で、仲良く出来ることをしているだけの世界に隔たりなんて存在し得ない。だからいつも、想いに主導権を握ってもらう。




6月17日
 朝、街にある大学の通学時間帯と重なる時は、沢山の学生とすれ違うのですが、いつも感じるのはみな同じ色。黒が大部分で、あと白、紺、グレー、ベージュ。今日も、途中オレンジとグリーンのシャツを着ている人を2人見かけた以外、みな同じ。まるで、色物は禁止という校則でもあるのでは?と思うくらい。少し前に新聞で、武道館で行われた複数の大学の入学式で、ほぼ全員が黒のスーツだったことを問題視して取り上げた記事を目にした記憶があるのですが、その風景から感じられることは、人としての感性のなさ、脳を支配・管理されて動いているロボット。周りに合わせて右へ習え的なことは、LED照明に反応しないことと同じで、それは服装でもより顕わになってきているようで、とても違和感を覚えます。光を吸収していまう黒。ふと感じることです。




6月17日
 電車に乗ったら、なかなかドアが閉まらずようやく発車したところで「ホームにお客様が倒れられているとの情報があり、救護を行い、、、」とアナウンスが流れて、(この前と同じパターン、、、)と思っていたら続けて「前を走っている電車内で、OO駅とOO駅で具合の悪くなられたお客様がいらした関係でこの電車はOO分遅れて、、、」と、これもまたほぼ毎回聞くアナウンス。知らないところでも、同じようなことがあちこちで起きているということなのだろうな。元気になるべく人たちが、元気になっていくこれから。




6月16日
 作られた平面世界の価値観の中にいる限り、何をどう捉えてどう理解しようとしても、思考を使えば隔たりの感情から自由になることはできないように思います。その価値観が、隔たりそのものだから。
 考えないでいられること、分からないでいられること。その価値観から離れられて、否定感情から自由でいられる唯一のところ。協調と融合しかない、思考では捉えられない、本来のいるべき世界。




6月13日
 思考が忙しくなって、それに伴って否定感情が動きだしたり、そんな静電気が注ぎ込まれて滞っている状態を、包み込むように見守っている大きな意思に、思考を働かせないで、思考を預けて委ねるような感覚をふと持つ。その感覚をジャマし続ける、分かり得ないことを分かろうとする(させる)ウソの思考を、無視して外すことが出来るようになってきているのかな、と感じることがあります。(やらなきゃいけないことは)全部分かっているから、考えないで、考えるべきことはこっちに全部任せなさい、とその大きな意思?に言われているようで、そういう感覚はとても気楽。自分があって、無い。
 人間はみんな、本当は、そうなんだろうな。何となくだけれど。




6月11日
 電車の窓からボケ~っと空を眺めていて、ふと見ると周りの何人もの人が何というかダラ~としていました。どうやら、何も考えず適当に気楽に過ごしている時ほど、勝手に通る?ものがありそう。。。




6月5日
 きれいに着飾って、上品な雰囲気を醸し出している女性が何人か集まった時の会話のあまりの下品さや不自然さに、時々ドキッとしてしまうことがあります。周りなどお構いなしに、大声でゲラゲラ笑ったり、誰かの噂話をしていたり、まるでLEDの光と同質の冷たい攻撃的なものを感じて、外見とのギャップがすごくて、そんな風景に出会うと女性らしさって何だろうと思います。
 素朴な人が自然体でいられる空気感って、どんな時も大切だなあと思っていて、男性らしさや女性らしさもそれと繋がっているようになんとなく思うことがあります。人から見た女性らしさを強く意識するのは、差別心と?がっているような気がして、差別心の強い人ほど見た目や世間体を何より大事にすることも、経験から感じています。そう思うと、外見で女性らしさを演出する人ほど、本質は怖くて冷たい人が多いのかもしれないなと、自分の今までと重ねて感じられます。
 男性らしさや女性らしさって、なんとなく、異性が一緒にいて安心感を覚える、差別心がない自然体の人のあり様なのかな。




6月5日
 カフェに入って、席に荷物を置いて、飲み物を買おうとカウンター前の行列に並んでいたところ、私の斜め後ろ辺りで飲み物を受け取っていた女性が突然、床に中身を派手にこぼしてしまいました(周りの人にも掛かってしまうくらい、、、)。ふと見ると、その女性が、私が荷物を置いた隣の席に慌ててハンカチを取りに行く姿が見えて、席に戻ると隣で濡れたバックやバックの中身を拭き続けられていて、なんとなく私は自分のペースを大事にできる感じでした。
 今までだったら、どこに行っても自分のペースを保つことができなくて、無自覚のまま融合の主導権を握られてしまっていたと思うけれど、少しずつですが、こちらが主導権を握れるような時を経験できるようになってきているのかもしれません。




6月3日
 バルコニーから見えるお宅の戸袋の中に、毎年小鳥が巣を作って子育てしています。毎日毎日、早朝から日が暮れるまで、夫婦で交互にせっせと餌を運んできてはただひたすら子育てしている風景を見ていると、親が子供の自由を奪い支配するなんて本当にあり得ないことだと分かります。
 親は、子供が本来持ち合わせているものを、ただ大切に育んでいけるよう、見守り支える役として傍にいてくれる存在。たとえ親子であっても、お互いの自由を尊重しあうという、人間としてごく当たり前のことは、当たり前のこととして大切にしていたい。そうすることが難しかったとしても、それは忘れてしまっていただけだから、想い出すだけ。けれど、もしそれが当たり前でない(理解できない)という現実があれば、理由のいらないハッピー感をもっともっと力強くして、親が子を(人が人を)支配することなど出来ないことを経験してもらうことは、これからの大切な流れかなと。思わず出てきてしまった言葉がシュンとしぼんでいく、そんな風景を前にふと想います。


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5月30日
 不安も心配も、怖れ、嫉妬、差別心という隔たりもみんな、変化と無縁の動かない停滞の世界。自由に回転できるようにしてもらえたから、停滞を遠くに仲間との融合を楽しんでいきたい。みんなでその回転を、大きく膨らませていくこれから。




5月30日
 さりげなくて、ほんわか優しくて、みんな仲良しで、言葉がなくても通じ合える安心の中に漂っていた。見えないけれど、行き交う暖かな想いが何でもない言葉に乗って、もうそれだけで充分。みんなの中に大切にあった優しい風景が、力を取り戻す。




5月25日
 何をしていても、何を想っても、身体の芯がカーッと熱くなって汗が出てくる感じが続いているのは、静電気を放出し続けているということなのかよくわからないけれど、何でもどうでもどっちでもいいかなってさらっと行けたらいいな。




5月25日
 仲間も書いてくれていましたが、オーガニックのトウモロコシの粒を以前お店で見つけて、以来よく岩塩でまぶしたポップコーンを作っています。最初失敗続きだったのですが、フライパンに薄く油を敷いたあと中火で粒を入れたら、ヘラでまんべんなく炒めて薄茶になって1~2粒弾けてきたところで蓋をすると、勢いよくあっという間に弾けて面白いです。ちょっとしたコツを発見するのは、いつも楽しいな。




5月19日
 朝、ちょっとしたストレッチのようなことをやる時、いつもいくつまで、と数えながらやるのが習慣になっていたのですが、先日数えていることに急に違和感を感じて(これって、限界を作ってしまっているのでは、、、)と気が付いて、そしたら同じことを仲間が日記で表現してくれていました。今朝は、最初何も数えずにやってみたらやりにくかったので、頭の中で素数をテンポよく言いながら(テンポよく言えたのは、23までだったので、そこまでを何度も繰り返して、、、)やってみたらなんか楽しくて、結局何回やったかわからないけれど今日はここまで~と自然に終わりました。日常の生活の中でも、こうして数で無自覚に可能性を限定し枠を作ってしまっていることばかりだなと改めて感じます。数に縛られないと、こんな感じ、あんな感じでOKになって自由に可能性が広がっていくことを、想い出していきたいな。




5月19日
 この頃、特にHPの日記を更新する時、自由な表現をさせない、というような重たい不安に覆われる感覚をハッキリ自覚できるようになってきていて、それで表現し続けることが力をつけていく為にはとても大切だと私なりに感じています。誰のため?何のため?といつも思考が忙しく不自由だったことも、それを意識することも難しかったように思うけれど、誰のためでもなく、何を期待することもなく、不安や差別心がそこに乗ってしまうこともそれもまた、自分を観察できる機会として力を付けながら表現し続けていきたいです。人の評価や比較を、無意識に優先させようとする狡さや小賢しさは、とことんまで染み込んでいるけれど、そうじゃないところでそのままを自然体で表現できるように、そのことでそれらを外していけるように、出来ることがあればこれからも、表現していきたいです。




5月18日
 この頃、連日電車に乗っていると、「具合が悪くなられたお客さまの救護のため、この電車はOO分程遅れて、、、」というアナウンスを頻繁に耳にします。先日は、ホームで電車を待っていたら突然「大丈夫ですか!」という声で後ろを振り返ると、女性が倒れていてそこに居合わせた男性が傍にかがみこんでいたので、とっさに両手をその女性の背中に当てて、ワークで教えてもらったばかりのことを想っていたら、その方の内臓がゴロゴロと動いているのが伝わってきて、だんだん正気を取り戻して、、、ということがありました。その後駅員さんと一緒に控室に向かわれてホッとしたのですが、傍にいた男性の話では、電車から降りてきた途端身体が硬直してそのまま変な倒れ方をされたのでびっくりしてしまった、ということでした。何が起きているのか分からないけれど、今までだったら情で判断してしまったこういうことも、いろんな意味があるのかもしれません。すべては物質ならば、危うい状況や不調を作り出すその物質を、素数と共にただただ浄化していきたいです。




5月14日
 自由な転生がかなわなかったこれまでがあったとしても、その全てを覆すことも今回の人生の仕事の一部と思えば、自分が今居る場所(関係性、環境etc.)の意味も、それを知ることが出来る時はもうそこから自由になれる時なんだな。そんなこんなを全部包み込んでしまう場所に、これから行くのかな。この時をずっと待っていたように感じて、何もかもが変わっていくこれから。




5月9日
 少し前から、住んでいる街の外へ出かけたくなって、家事の合間に気軽に電車に乗って、都心の街でたまたま見つけたカフェでお茶を飲んだり、お買い物をしたりしています。なんでもないことなのですが、今まではそういう発想も持てず、向かわないとできないことだったので、自然に動けているこういう些細なことも、脳の負荷が少し無くなってきているということなのかな。そして、なぜ今まで自由に動けなかったのか?と、素朴な疑問が湧いてきます。例えれば、気持ちに重しを乗せられて、鎖でつながれて、自由のない中で何とか出来ることをして、その出来ることも、ほとんどが操られている中でのことだったのかもしれないなと、今は何となく思います。
 何か、次に繋がる広がりを少し感じられるようになってきて、うれしいな。




5月9日
 外して、振り切って、その度に何かが自由になっていくよう。誰かの喜びや安心を、誰かの痛みや苦しみを、自分の事として感じる普通。いじわるで攻撃的で冷たいギラギラしたものが、表に出てきては力を無くしていく。父が感情を露わにしてくるのもきっと普通なのだろうな。(そこには別の理由があったことを、後で何となく知りました。)




5月5日
 仲間を想っても、どの無有日記に触れても、素数を想っても、何もしていなくても、素数の原因は流れてくるみたい。すごいのが出てきては消えて、ほっとして、ただひたすらその繰り返し。消えた後は、心が軽くて優しい気持ちでいっぱいになる。




5月5日
 GAPの薄手のTシャツを2枚重ねて着ると、無地のTシャツがグッと可愛いくなることに今頃気が付いて、今日は何色の組み合わせにしようかなって毎日の楽しみになっています。安いから、いろんなきれいな色の色合わせを楽しめてうれしい。なにか、元気な色が着たいなー。




5月2日
 今朝、起きたら部屋の湿度は60%。青空が広がってきて、3時過ぎにふと見たら、久しぶりに31%。空が真っ黒だと思えば青空が広がってきたり、天気の攻防が、今どれ程のEWが進行しているのかを教えてくれているようです。朝、分厚い黒い雲の下歩いていて見かけたハトたちは、何かイライラしているようで、私も否定感情が出てくるけれど、淡々と処理していける今。気が付けば、青空が広がって、風がもう爽やかで、なんという一日だろう。


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4月30日
 不安とか心配とか素数の原因は突き抜けて、外でも中でも着たり脱いだり何だかよくわからないけど、細胞が喜んでいるみたい。




4月30日
 地球が軸を移動させながら自由に自転している、と想像するだけですごくうれしい。自由に、その時その時の感覚のままに動きたいのに、だからこそ本来が生き生きと輝いて活躍できるのに、固められた枠の中で窮屈に生きさせられることに違和感を持てなくなってしまうのは、とても悲しい。
 一定の年齢になると祝う慣習があるけれど、それを意識させられると何か重たい気持ちになるのは、そこに固定された動きのない世界を感じるから。決まり事を大切にする人は、それがあることでそれに合わせてそれらしく生きられて、それに助けられているように感じるけれど、それから自由でいる人が若々しく元気に生きている姿を目の前にしたら、たぶん困ってしまうのだろうな。
 この頃、親が今の自分の年齢だった頃のことをふと思い出すことがあって、いろいろなことが全然違うことに気が付きます。この年齢では普通こういうもの、と固定しようとする枠に縛られず自由でいることはそれだけで、ぶつかることなく今までの重たい価値観を変えていく力になっていくのかな。




4月27日
 「金」は、とても柔らかくて歯の質に似ているから詰め物には最適だ、と歯医者さんに言われたことが何度となくあります。実際、結婚してから(歯は大事だから、それだけはお金を惜しんではいけない)と親から言われ育っただんなさんの影響で、私は何本かの歯の詰め物に「金」を使ってもらったことがあります。そして、振り返ってみればそれから、それまではなかった歯ぐきの炎症と片頭痛を何かの度に繰り返すようになりました。とても高額な「金」を使うこと自体には違和感が増してきていたので、治療の度にまた徐々に保険がきく普通の詰め物に戻していたけれど、昨年無有日記で金のことに触れて、2本残っていた歯の詰め物を替えてもらいに歯医者さんに行った時には、外してみたら深くがひどく炎症を起こしていたり、骨が溶け始めていて、危機一髪の状態でした。「金」を使っていた歯の周りだけが、他の詰め物の歯と違ってひどく弱っていて、今も炎症を起こすはその歯のところです。
 「金」という物質が、何かしら身体細胞に負荷をかけ、攻撃・破壊する性質であることは、この経験から感じられます。その「金」を、身体の一部に組み込んでしまうことは、身に着けたりするよりもっと怖ろしいことだと思います。口の中にあるということは、少しずつその性質を細胞に取り込んでしまうことでもあります。先日、歯医者さんに行った時にふと繋がったことですが、岩塩がある今だから、素数と共に、今までの何もかもが包まれ次に繋がっていくこれからなのかな。




4月25日
 食べる物で、身体や脳の働きが決まっていくことを思うと、一人暮らしなら自分の意思で自由に食べるものを選択することができるけれど、家庭では、多くの場合女性が担っている役割ってとても大きいなと思います。主婦の立場から感じていることは、女性がリラックスしててきとーに作っている料理が美味しかったら、それは一緒にいる家族にとって最高に嬉しくてハッピーだなあ、ということです。
 リラックスと簡単にいうけれど、それは思考ではなかなか難しいです。リラックスできない理由には様々な原因があると思いますが、私の経験から言えることは、どういうわけか、台所にある塩を海塩から岩塩に替えてから一気に料理することが気楽になり、頭の中が変わってきたように感じています。味付けがシンプルになって、ヘンな表現ですが頭で料理を作らなくて済むようになり、美味しいとか、食べたいとか、食べた後の楽さ、とかそういう感覚が元気になってきた気がするのです。正解がないから、変な緊張がなくなってきたのかもしれません。そう思うと、海塩で作られる日本の伝統食で染み込んだ価値観は、気楽さとか自由とかそういう人間が本来備えている感覚を抑え込んでしまうものなのかな。
 和食で、沢山の種類の器を使うという習慣も、本来自由に素朴に楽しむ食を思考で扱い、差別心と?がる重たい感情がそこにはあるように思います。器に凝るという発想は、見た目や結果や評価を意識したものだから、その何よりも形を重んじる世界と繋がってしまうと、素朴な感性や感覚は抑え込まれてしまうように感じます。たった何種類かのシンプルで使い易いお皿があれば十分で、気楽に料理ができるようになって、改めてそういう世界が違和感として感じられるようになってくるようです。
 家庭で食を担う女性の安心は、共に暮らす家族にとって何よりの安心だと思います。岩塩と玄米と全粒粉(パン、パスタ)、豆乳、新鮮な野菜や果物、そして肉食を極力控えることによって、その女性の感情が癒されていくことは、もしかして社会が変化していく過程でとても重要なことなんじゃないかと、この頃感じるのです。




4月22日
 人は、謙虚になれると安心するのかな。安心だから、謙虚になれるのかな。
 太陽が元気で、空気が爽やかで穏やかで、それだけで人は優しい気持ちになれるなあ。小鳥たちが、小さなくちばしにたくさん枯草をくわえて、あちこちで巣作りしている。鳩がポッポポッポ鳴いていて、あっちにいたりこっちにいたり。




4月21日
 本来が望む融合を阻むように、しつこく覆われる同じ感情にもう抵抗もせず、昨夜は本気で身を引こう、それでみんなが楽になると思った時に、すーっと圧が引いたように感じて、そしたらそれまでと全く逆の発想が沸いてきて、でもそれはずっとそうだったことを想い出しただけにすぎなくて、外れたら、その安心と平和な場所から、ずっと付き合ってきた感情が何故ここまでそうなのかを何となく感じられるような気がします。仲間たちみんなで守り抜く為に、知恵を合わせてきたことだから、想い出せば穏やかで優しい力強い想いに包まれます。仲間との融合を、心は何より望んでいる。




4月17日
 気持ちが、爽やかで軽くてうれしい。夜中、目が覚めた時にスーッと不安が出てきて感情が動き出しても、家にいてふと思考が働き出しても、歩いていてどこかが痛くなっても、その事実に?と意識を向けると、その度手が反応して、やっぱりそれらがスーッと姿を消していきます。それが、今までにない感覚で面白いです。
 今日は、カフェで静かに過ごしていたらいつの間にか混んできて、それでもあまり気にならず浮かぶことを書いたりして過ごしていたところ、傍に座っていた高齢の女性の声がどんどん大きくなり、聞きたくない内容も耳に入ってきて、さっそく素数を想いながら、引っ張られてしまうこの状況に意識を向けたら、想い始めてすぐに一緒にいた人に促されて席を立ってお店を出て行ってしまいました。その後間もなく、今度はまた傍に座った人の刺さってくるようなべたっと張り付いてくるような声が聞こえてきて、尾てい骨が痛くなり、同じようにその事実になんとなく意識を向けていたら、声の力が急に落ちて、寒くなってまた暖かくなってきたなあ、静かだなあと思ったらもう声の主はいなくて、またガラ~ンとした空間に。ワークの後、なにかいろいろ興味深い経験をします。




4月16日
 ふと振り返った時に、ただ正直にありのままにその事実に反応してそうであってそうであり続けていてくれるその姿が、そうしようと思っている訳ではないのに、結果的に、ガチガチに固まった周りの価値観(感情)を砕いている、という事実を感じることがあります。こんなことはあり得ない、と思うようなことも、それを原因として捉えると、その堅固な塊を砕くには必要なプロセスだと、思うこともあります。そんな時、意識できないところでの役割分担を想います。安心の中で、どちらでもないところでそう感じられること一つ一つが体験的知識となって、何かが自然に流れて伝わって、誰かの安心に繋がっていくといいな。




4月15日
 素数の、中途半端な数、という表現になぜだかすごくホッとして、安心して、うれしくなる。むしょうにうれしくて、子供みたいにワクワクしてくるのは、その原因を本来が知っていて思い出しているからなんだろうな、と思う。全てである一つ。
 ワークを経て何かがしっかりして、そのことが分断とか差とか隔たりとか、そういう不安を次々と弾き出し始めたように感じる。




4月11日
 一方通行しか知らないもの。響きあい、生かし合い、行ったり来たり自由に行きかうもの。
 苦しくなるときはいつも、一方通行のものが力を持つ時。




4月11日
 どこまでも本来を抑え込み、潰そうとする何かは、自己否定もそう。傲慢さと繋がるそれは、他を羨み、他を攻撃し、他を潰す。地球の成分でできている人間だから、自分を否定することは、地球を否定すること。
 目の前の岩塩をぼーっと見ていたら、自分は地球なんだなあと感じられて、優しい気持ちになる。




4月7日
 不安や嫉妬心が強くなると、人のことばかり気になって、焦り、自分に正直でいられなくなってしまう。ここにきて、何かすごくて、でも内も外も焦っているみたい、、、とふと感じたら、力を無くしたみたいに気持ちが楽になってホッとする。
 この頃、家族がよくしゃべる。気楽がいい。




4月2日
 目にしたサングラスの広告のチラシで、青色光線の弊害を眼球の断面図で説明していて(水晶体を突き抜けて網膜の奥まで達する光が、細胞を破壊することや白内障の原因となること等)、そこには太陽光の紫外線のことしか書かれていなくて、LEDという文字はどこにもありません。その商品を扱っている会社が、LED照明も扱っている都合上というのは容易に想像がつくけれど、それにしてもここまであからさまにLEDへの言及を避けるのはどうしてだろうと、素朴な疑問を持ちます。
 私自身、「LEDの影響」の写真のページを編集している時、体の一部がブルブル震えて内側から抵抗するような反応があったし、ページをアップする度、その直後にはいつも強い不安が出てきました。LEDの悪影響を出会った人に直接伝えたり身近な人に説明したりした時の反応も、とても強く反発されたり、攻撃的な感情を向けられたり、表情が固まってしまったり、ぼーっと遠くを見るような虚ろな目になってしまったり、反応はいろいろでもみなどこか怯えているように、その事実を受け止めることを無意識に避けようとする人が大多数だと感じます。「知るのが怖い、、、」と言葉にした人もいました。LEDの破壊力をどこかで知りながら率先して世の中に普及させようとする存在と、光の性質の原因が、大多数の人たちの怯えの理由と繋がっていることをなんとなく思います。
 LEDと同じ非生命的な原因が自らの中にあって、それが自らを支配していれば、LEDに真に違和感を感じることは難しいし、実際私もそうでした。LEDの光が地球大自然に対して行っていることと同質のものを自らの中に見る、それが支配から外れるための一歩なのかなと、経験を通して感じます。




4月2日
 自分の中に居る、非生命的な存在と本来の自分。その時、どちらが主導権を握るかだなと。非生命的な存在が引き寄せるその形から把握できることがあるから、その一つ一つの原因に対処していける。だからそのまま正直でいる。自分の中にやるべき全てがある。




4月2日
 家族と買い物に出かけた先で、LED照明と人混みの中3~4時間程過ごした帰り道、それまでは普通に過ごしていたのに、頭の一部がズキンズキンと痛み出し家族も咳が出てきて、帰宅すると尾てい骨と足の重痛ダルさも出てきました。家事を何とか済ませて横になり、左手に黒岩塩の塊を握ってその手を頭の痛いところに添えながら、他の場所を意識したりしていつの間にか1時間ほど寝てしまって、目が覚めたら痛みが消えていました。
 人混みに長く居ると、片頭痛が出てきてそれが始まると2~3日は続くことが前からよくあって、それが速攻で消えてしまったのは驚きで、岩塩がどれほど応援してくれているかと思います。要らないものを押し出そうとする力もついてきているのかもしれません。どんどん力をつけていきたい。



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