日記
                                                 

過去の日記1   

8月23日
 何も分からずにいられたから、徹底的に染み込ませてきた負の原因を、これから本格的に浄化していけるという喜びがあります。何も分からず、エネルギーの意思はその意思のまま、ずっとそのままそうであったんだなと、今は感じられます。
 よっしゃ!と、元気が湧いてきます。




8月22日
 目の前(大多数)の人の何もかもが嘘だと、感覚的に分かってくると、大切に守るべきこともよりはっきり観えてきて、いろいろなことがシンプルになってくるようです。自動的に行われていく何かが、目の前の風景として現れてくるだけだから、ただ、安心を普通に過ごしていく。
 いつも通り過ごしているだけなのに、今まで攻撃的で威圧的な態度だったり、イライラしてどこかふてぶてしい態度が表に出てきていた人たちが、急にこちらのご機嫌を伺うような感じになって、時期はズレていてもその反応が共通していることに気が付きます。同じ意思の元に支配されているのだとすれば、そういうことも普通のことなのかもしれません。どこまでも、自らの中に蓄積している負の原因を、浄化していきたい。




8月20日
 いつからか感じ始めていた、互いの間の、形のない動きを止めるような何かが無くなったような気がして、安心が包み込んでいる。優しい穏やかな気持ちは、それが普通だから、その時には普通に元気になる。
 不安って何だろう?何故、ここまで力を持ち得ていたのだろう?ただ、その理由を、感覚的に理解する。
 安心が強くなってくると、不安は自然に力を無くしていくように感じる。それが、何かを砕いていくということなのかな。意識し得ないところで、ただただふつうに、何かが力を無くして、何かが優しくなっていく。




8月18日
 スポーツを観戦している時、イライラして暴言を吐いたり、応援しているチームが負けると酷く不機嫌になったり、お腹が空くと怒りっぽくなったり。ある場面で、急にスイッチが入ったように、非生命的な感情をむき出しにする人は、そうでない時、その感情を抑え込んで蓋をしている訳で、その秘めた感情の負の影響力を想うと怖いものがあります。
 本(雑誌・新聞etc.)を絶え間なく読み、端末の情報をインプットし続け、そうせずにいられない人は、そうして本能的に本性の危うさが表に出てくるのを抑え込もうとしているのかな、と感じることもあります。
 目の前の人の、その思考も感情も言動も表情も、心ある普通の人の素朴なそれをコピーして、心ある振りの材料として、その本性を見えなくするために利用し、操られているのではないか。時に、その言動だけを見れば心ある普通の人だけれど、人間として持つべきもの(電子や元素)という世界から感じられるようになってくると、そういう事なんじゃないかと理解できてくるような気がします。観えるものが変わってきて、そして安心が強くなっていきます。



8月14日
 感じていて、ただ考えずにいたけれど、しっかり認識するべき必要性があればその時は来て、ああ、だからそうなんだなと、身近な風景の中での確認作業を経て、その事実は消化されていきます。この時の為のこれまでがあって、もう、これ以上それ(停滞)に付き合わなくてもいいこれから。
 やるべき事は、頭の中には無いから、淡々と行こう。優しい、穏やかな気持ちで日常を過ごす中で、自然に訪れるその時、その時を、さらっと通り過ぎていけたらいい。ワークから帰宅したら、家族が、ほわんとした表情をしていた。ただ、優しい気持ち。



8月10日
 誰かを通るその想いは、心あるみんなと繋がって、あの人もこの人も分断することなんて出来なくて、あの人もこの人も、この地球大自然も、同じ想いを共有する自分。自分だから、他人事なんて有り得なくて、いいも悪いもない、全てを共有して変化に乗っていく。
 良し悪しは、バラバラの個、分断しか知らない世界で作られた嘘。どちらかに居させて、どちらでも有りどちらでも無い世界の力を抑え込む、嘘の価値観。不安も怖れも、差別心も嫉妬心も、それと繋がっている。何もないところから、その嘘の世界を観る。




8月8日
(1) 怠くて重くて不安が動き出しそうな時、クジラの磁界を想うと瞬間に、スーッと何もない場所に案内されて、身体が軽くなる経験をする。何か嬉しくて楽しい、クジラの世界と共にいる。


(2) 縁ある周りの風景も、目の前の人の姿・形ではなくて、その人(の脳)を支配している、その大元の非生命的な存在を何となく感じられるようになってきて、少し余裕を持って観ることが出来るような気がする。
 目の前で変な言動をしたり、今さっきのことを忘れて同じことを繰り返したり、また、身近な人が(高齢にもかかわらず)急にスマホを使い始めたり、そういう風景も、その人の意思というより、その人を動かしている別の意思の反応として何となく感じられて、観察できる。
 お店のレジで思ったことだけれど、不自然な様が伝わってくる人ほど、無有日記に連動してボケぶりが激しいような気がします。




8月6日
 表現は本来、その人個人のものじゃなくて、何か大きな意思が、その人の意思を通して形になるもののような気がする。だから、表現の個性の違いはあるけれど、元は一つのところからそれぞれの意思を通って、形になるのが本来なのかな・・・と何となく想ったら、うれしくて楽になる。個を強く意識させられると苦しくなるのは、本当は個じゃないからなのだろうな。
 表現の形は、その通ってくるものの変化が、自然に変えていくのかもしれない。表現は、想いの具現化だから、その形だけに焦点を当てれば嘘になってしまう。だから、想いをそのまま形に乗せて表現できるように、それをジャマするものを外していくだけ。




8月5日
(1) 太陽の光が、ビルの窓に反射して、お店の奥の私のところに一直線にやってきた。しばらく、ずーっと照らされていて、ニヤ~って笑ってしまう。太陽の遊び心。

(2) もう既に、必要な全てがあるところにいる、という意識がふとやって来る。そこにいて、周りの風景を観て、動かないものは何もないことを、想う。もしかしたら、その意識が、今まで力を持てなかった生命の意思なのかもしれない。
 グラついて、過去の経験が力を持ち得てしまえば、不安になる。けれど、大丈夫。決して無くなることのない、大切なものは、どんどん元気になって、その不安の元を押し出し始めているよ。




8月4日
 ただ思いついたアイデアが楽しくて、Tシャツに別のTシャツを切り抜いて作った、クジラのシルエットや好きな素数を縫い付けて遊んでいた。先日、元気が出なかった時、洗濯して干しているそのTシャツを見た途端、一瞬で元気になる経験をした。素数やクジラと一緒になった、自分のハッピー感に応援された感覚は、初めてだった。
 理由の要らない喜びの、そのパワーはとんでもない。それが有るから、どんな重たい存在も、きっと包み込んでいける。そうだね、そこがきっと、何もないところ。




8月3日
(1) 今、普通に出来ることを、ただふつうに表現し続けていこう。

(2) 融合し、共に高め合うことしか知らないから、分断し、停滞しか知らない存在たちを包み込んでいける。

(3) クジラたちが、大海原を感じるままに泳いでいる。穏やかで優しい気持ちで、ゆったりとおおらかに、ただただ泳いでいる。嬉しくて、楽しくて、それだけ。人間も、クジラの様に生きられるんだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


7月31日
 永い間に積み重なった、非生命的な経験の原因を突き抜けるようにして、本来の自分から私なりに表現を重ねてきたこれまでだったように思うけれど、今は、その積み重なった不安の元が動き出して浮き上がってくるのを、一つ一つ観ているような気がします。そしてそれと同時に、何か固まっていたところが溶けてきたように、気持ちが動き出しています。
 無有日記に触れて、仲間たちの表現に触れて、動くものはいいも悪いもない中庸の世界に包まれて、溶けて癒されていく。本当は、全部知っているから、不安なんて知らない。誰かの力になりたい。今はそんな気持ち。




7月26日
 本来が元気になると、人と自分を比較することが出来なくなる。それぞれが、それぞれの場所で回転して、形があるなしに関わらず支え合うことが当たり前だから、共感と協調があるだけ。とても気持ちが軽くて、力が入らない。それが本来だと思います。
 その本来を持たない存在がいるとしたら、その世界を経験できない焦りから、執拗に他者を意識して、正解不正解を探り、比較をし(させ)続けるのかもしれません。停滞だけの世界。乗っ取られる?自分の思考を観察して、なるほどなあと次へ行く。何も力は要らないな。




7月21日
 何か(誰か)を特別視したり、比較したりされたり、そういう時、人は緊張します。世の中の大多数の人の中にある差別心は、時に自己否定とセットになって、自他を大切にできなくなって、自分と、繋がる全てを壊してしまう破壊の意思。それと、尾骨は繋がっているんだな、と感じます。
 普通がいいなあと思います。素朴でさりげない空気感。何か(誰か)を特別視しなければいられない人たちがドキッとして、緊張させられてしまっている人たちがホッとする。ずーっと緊張の中にいたから、今は、できれば普通でいたいなあと思う。




7月18日
 このところ、何となく今までになく周りが騒がしくなっているように感じるのですが、結局、何事もなく過ぎていくことに気が付きます。問題事に巻き込もうとしても、それが上手く回らないのではないかな、とふと思います。
 以前、できれば今後、あまり関りを持ちたくないところから連絡先を聞かれた時に、全く意図せず、メールアドレスを口頭で一部間違えて教えてしまって(後で気が付きました)、結局それ以降連絡がこなくなってホッとした、という経験をしたことがあるのですが、これからはそのもっと手前のところで、不必要な融合をしなくてもいい流れができてくるのかなと、このところの出来事を通して感じます。何も考えていなくても、その手前で、自然に回避されていくような。
 頭?の力(緊張)が抜けてきたかな。




7月13日
 久しぶりに、何でもない会話を少し交わしただけで尾骨が痛くなり、素数を想うと手に強い反応があってそれが消えていきます。縁ある人の、ずっとそうだった影響力に反応できて対応できる時がきたことはうれしいことです。反応できれば、情に引っ張られることもなく、今まで染み込ませてきた全てをウソとして、浄化していくことも、同じ繰り返しを終わらせていくこともできます。
 体験的に学んできた、無意識の影響力に反応している時の身体的な感覚や、その後の気持ちや思考の変化。それに対しても、思考や感情が忙しくなれば、そこを通ってより攻撃されてしまうことも知り、それらを外すことの重要さも分かってきます。分かることは力なんだな、と思います。




7月10日
 比較のない世界って、なんてのびのびとしていて、楽なのだろう。何にもない。ただ、響き合って、感じ合って、何かをクリアしていく。重たいものを振り切って、表現して、ふっと訪れる感覚。
 そうやって、力持ちになっていこう。




7月8日
 本をたくさん読む人が、体験を伴わない知識で会話の主導権を握ろうとする時、その人を通してその本を書いた人の思惑みたいなものが伝わってきて、重たさを感じる時があります。そうして伝わってくるものは、べたっと張り付くように残って、停滞の原因になってしまうこともあります。
 本(雑誌・新聞)やネットの情報から離れて、体験的に知ることを大切にしていると、自分が何気に引き寄せる物事や情報を通して、自分がどういうところを繋がり、どういう状態かを知ることができて、それを修正する機会をつくることができたり、それまで分からなかった情報や知識の性質に反応できるようになることを経験します。
 体験的知識が、自分の原因を力強くしてくれたり、次に繋がる力になってくれることを経験すると、どんな知識も情報も、引き寄せた自分とそこにある性質や影響力を感じ、自分の中で消化されたものでなければ、次に繋がることのない無責任な停滞の原因になってしまうことを感じられます。
 本をたくさん読むことを良しとする常識は、家庭や学校でとても力を持っていて、その常識に飲み込まれてしまえば、本来の感性や感覚は抑え込まれてしまいます。頭(思考)だけで、物事を判断することにも違和感を覚えられなくなってしまうように思います。
 周りに溢れる、本(作者)や情報や知識のその負の影響力から自由でいるために、そこにある原因に反応できる人間らしさを取り戻していきたい。




7月3日
 人間が本来持ち合わせている感覚を鈍らされてしまうと、隔たりの感情に無自覚になり、その感情を通し、煽り、自分と同じ様に人の変化を止めてしまう。それが今まで通りにはいかなくなると、より大きな力が働いて、その動きを強めようとする。
 心ある人同士が、牽制し合い、いがみ合って、決して本来の調和ある関係性を取り戻すことがないよう、思考を強く働かさせて、心ある人の脳を操る非生命的な存在の意思。
 想いを言葉に、ただただ本来の感覚を取り戻し、無くていいものを外していく。




7月1日
 親の価値観を、子供は何の疑いもなく染み込ませて成長していくという観点から感じてみると、家庭というのは、一種の宗教と言えるのではないだろうか?と思う時があります。宗教は、宗派を問わず、組織に入っているいないにかかわらず、人々の価値観の隅々にまで影響を及ぼし浸透していると思うからです。
 無宗教としていても、人生は辛く厳しいものだから頑張るのは当然、という人生観を持ったり、目に見える形ある物しか認めようとしない人が普通に初詣に行ったり、先祖供養や戒名に拘りながらも、都合よく真理とか中庸という言葉を利用したりします。
 少し乱暴な意見かもしれませんが、多くの人は、結局、人間味の無さや冷たさを都合よくごまかしてくれる有り難いものとして、いろいろな宗教の教え?を染み込ませて、利用し利用されて、それを価値観として生きているのではないかと思ってしまう時もあります。
 親は、幼い子供にとっては絶対的な存在だから、その親がそういう価値観を基に、知識や経験枠のみで人や物事を判断し、不安をベースに子供の将来を常に先回りして考え育てられ成長すれば、普通の人であれば、人間本来の自由な感覚は力を無くしてしまいます。親の都合のよいように支配されたまま、家庭を持ち、また親の意に添うように子を育て、支配を形にしていきます。人間の歴史で繰り返されてきている負の連鎖は、その支配者にとって都合のよい価値観に決して違和感を持つことを許さない圧力の中で、固められてきているのだと思います。そして、常にその中心にいた存在が、この国の天皇なのかなと。
 社会の最小単位である家庭で、親から子へ染み込んでいく結果重視の重たい価値観が、世の中の支配・差別心を支えていることを想うと、その平面上の「中心」という概念から自由になることは、今までの価値観を力なくさせていく力になれるような気がします。
 この社会の中での、役割上での中心で、差別心を持たない普通の人が活躍できて、多くの人の差別心が力を無くしていく、そういう未来を引き寄せていきたい。そんな想いを持ちます。
 










トップページへ