日記
                                                 

過去の日記1   

7月21日
 何か(誰か)を特別視したり、比較したりされたり、そういう時、人は緊張します。世の中の大多数の人の中にある差別心は、時に自己否定とセットになって、自他を大切にできなくなって、自分と、繋がる全てを壊してしまう破壊の意思。それと、尾骨は繋がっているんだな、と感じます。
 普通がいいなあと思います。素朴でさりげない空気感。何か(誰か)を特別視しなければいられない人たちがドキッとして、緊張させられてしまっている人たちがホッとする。ずーっと緊張の中にいたから、今は、できれば普通でいたいなあと思う。




7月18日
 このところ、何となく今までになく周りが騒がしくなっているように感じるのですが、結局、何事もなく過ぎていくことに気が付きます。問題事に巻き込もうとしても、それが上手く回らないのではないかな、とふと思います。
 以前、できれば今後、あまり関りを持ちたくないところから連絡先を聞かれた時に、全く意図せず、メールアドレスを口頭で一部間違えて教えてしまって(後で気が付きました)、結局それ以降連絡がこなくなってホッとした、という経験をしたことがあるのですが、これからはそのもっと手前のところで、不必要な融合をしなくてもいい流れができてくるのかなと、このところの出来事を通して感じます。何も考えていなくても、その手前で、自然に回避されていくような。
 頭?の力(緊張)が抜けてきたかな。




7月13日
 久しぶりに、何でもない会話を少し交わしただけで尾骨が痛くなり、素数を想うと手に強い反応があってそれが消えていきます。縁ある人の、ずっとそうだった影響力に反応できて対応できる時がきたことはうれしいことです。反応できれば、情に引っ張られることもなく、今まで染み込ませてきた全てをウソとして、浄化していくことも、同じ繰り返しを終わらせていくこともできます。
 体験的に学んできた、無意識の影響力に反応している時の身体的な感覚や、その後の気持ちや思考の変化。それに対しても、思考や感情が忙しくなれば、そこを通ってより攻撃されてしまうことも知り、それらを外すことの重要さも分かってきます。分かることは力なんだな、と思います。




7月10日
 比較のない世界って、なんてのびのびとしていて、楽なのだろう。何にもない。ただ、響き合って、感じ合って、何かをクリアしていく。重たいものを振り切って、表現して、ふっと訪れる感覚。
 そうやって、力持ちになっていこう。




7月8日
 本をたくさん読む人が、体験を伴わない知識で会話の主導権を握ろうとする時、その人を通してその本を書いた人の思惑みたいなものが伝わってきて、重たさを感じる時があります。そうして伝わってくるものは、べたっと張り付くように残って、停滞の原因になってしまうこともあります。
 本(雑誌・新聞)やネットの情報から離れて、体験的に知ることを大切にしていると、自分が何気に引き寄せる物事や情報を通して、自分がどういうところを繋がり、どういう状態かを知ることができて、それを修正する機会をつくることができたり、それまで分からなかった情報や知識の性質に反応できるようになることを経験します。
 体験的知識が、自分の原因を力強くしてくれたり、次に繋がる力になってくれることを経験すると、どんな知識も情報も、引き寄せた自分とそこにある性質や影響力を感じ、自分の中で消化されたものでなければ、次に繋がることのない無責任な停滞の原因になってしまうことを感じられます。
 本をたくさん読むことを良しとする常識は、家庭や学校でとても力を持っていて、その常識に飲み込まれてしまえば、本来の感性や感覚は抑え込まれてしまいます。頭(思考)だけで、物事を判断することにも違和感を覚えられなくなってしまうように思います。
 周りに溢れる、本(作者)や情報や知識のその負の影響力から自由でいるために、そこにある原因に反応できる人間らしさを取り戻していきたい。




7月3日
 人間が本来持ち合わせている感覚を鈍らされてしまうと、隔たりの感情に無自覚になり、その感情を通し、煽り、自分と同じ様に人の変化を止めてしまう。それが今まで通りにはいかなくなると、より大きな力が働いて、その動きを強めようとする。
 心ある人同士が、牽制し合い、いがみ合って、決して本来の調和ある関係性を取り戻すことがないよう、思考を強く働かさせて、心ある人の脳を操る非生命的な存在の意思。
 想いを言葉に、ただただ本来の感覚を取り戻し、無くていいものを外していく。




7月1日
 親の価値観を、子供は何の疑いもなく染み込ませて成長していくという観点から感じてみると、家庭というのは、一種の宗教と言えるのではないだろうか?と思う時があります。宗教は、宗派を問わず、組織に入っているいないにかかわらず、人々の価値観の隅々にまで影響を及ぼし浸透していると思うからです。
 無宗教としていても、人生は辛く厳しいものだから頑張るのは当然、という人生観を持ったり、目に見える形ある物しか認めようとしない人が普通に初詣に行ったり、先祖供養や戒名に拘りながらも、都合よく真理とか中庸という言葉を利用したりします。
 少し乱暴な意見かもしれませんが、多くの人は、結局、人間味の無さや冷たさを都合よくごまかしてくれる有り難いものとして、いろいろな宗教の教え?を染み込ませて、利用し利用されて、それを価値観として生きているのではないかと思ってしまう時もあります。
 親は、幼い子供にとっては絶対的な存在だから、その親がそういう価値観を基に、知識や経験枠のみで人や物事を判断し、不安をベースに子供の将来を常に先回りして考え育てられ成長すれば、普通の人であれば、人間本来の自由な感覚は力を無くしてしまいます。親の都合のよいように支配されたまま、家庭を持ち、また親の意に添うように子を育て、支配を形にしていきます。人間の歴史で繰り返されてきている負の連鎖は、その支配者にとって都合のよい価値観に決して違和感を持つことを許さない圧力の中で、固められてきているのだと思います。そして、常にその中心にいた存在が、この国の天皇なのかなと。
 社会の最小単位である家庭で、親から子へ染み込んでいく結果重視の重たい価値観が、世の中の支配・差別心を支えていることを想うと、その平面上の「中心」という概念から自由になることは、今までの価値観を力なくさせていく力になれるような気がします。
 この社会の中での、役割上での中心で、差別心を持たない普通の人が活躍できて、多くの人の差別心が力を無くしていく、そういう未来を引き寄せていきたい。そんな想いを持ちます。
 










トップページへ